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ものわすれがひどいのと文章の練習とおたく

モノクロームの景色を極彩色に染め上げる

昔から少女漫画が大好きだった。かっこよくて優しい男の子に、女の子が一生懸命恋をして、ときめいて傷ついて、最後は幸せになる。この幸せになるというのは、意中の相手とのハッピーエンドがもちろん望ましいけれど、それだけで終わらないものもある。

わたしが人生で一番好きな少女漫画である矢沢あいの『Paradise Kiss』もそのひとつだ。 

Paradise kiss 全5巻 完結セット (Feelコミックス)

Paradise kiss 全5巻 完結セット (Feelコミックス)

 

 わたしは昔から漫画が大好きで、お小遣いの全てを費やして少女漫画を買っている女の子だった。月初めに母からお小遣いをもらうと、本屋さんへ行って、りぼんとちゃおとなかよしを買って、それでその月のお小遣いが終了していた時期もあった。友達にもいろんな漫画をおすすめして、お互いに貸し借りもしていたけれど、わたしは何せ月のお小遣いを全て費やしているので、貸す方が多かったように思う。自分の好きなものをオススメして、その話で盛り上がれるのはとても楽しかった。でもこの漫画に出会った時、初めて誰にも渡したくないと思った。自分でもひどく子供じみている、と思った記憶がある。でも、本当に誰にも貸したくないとそう思った。そんな幼い独占欲が芽生えてしまうくらいに、この作品はわたしにとってすごく衝撃的で、装丁の美しさもあって、宝物のような本になった。

Paradise Kissを読むまでの矢沢あい先生の漫画の印象は、絵が特徴的で、ファッションの話と、不思議な話を描く人だった。後ろ2つは『ご近所物語』がアニメでやっていたことと、『下弦の月』がりぼんで連載していたというだけの理由。小学生のわたしは実果子にはあまり感情移入していなかった。家庭環境の複雑さとか、徳ちゃんへの憧れとか、皆がそれぞれ持つ精神的な弱さとか、まだわからなかった。同じアニメ枠だった『ママレード・ボーイ』を見る方がよっぽど夢中だった(あれも家庭環境自体はすごく特殊な設定だったけれど、重苦しい空気がそんなになかったからだろうか)。

ジョージは作中で指摘されている通り、少女漫画のヒーローとしては型破りな存在だ。主人公の紫に惚れ込んで、ミューズとして彼女を自分のアトリエへ誘うし、好きそうな素振りを見せるのに、紫が自分自身で選択しない限りは、甘い態度をちっとも見せない。例え自分相手だとしても、夢への大きな選択より、甘い恋愛を取ろうとするものなら、ピシャリと軽蔑されて叱咤されてしまう。それは父親に振り回されている母親を見て育ったジョージが、誰よりも夢を置い続けているジョージが、自分自身にも相手にも最も求めているところだからだったと思う。この美しくて痛々しくて漫画のラストは、ジョージが求めていたミューズが、紫ただ一人であったからこそのラストだ。何もかもを周囲のせいにして憎んできた紫が、ジョージに出会って世界を極彩色に染められて、自由に羽ばたいていく。一人の女性として、強く、そして輝かしく。

小説や漫画や映画というのは、読む年齢、もっと言うとその日のコンデイションによって感じ方や捉え方がまるで違う。まあ今日読んで明日だと微々たる差異かもしれないけれど、十代と二十代とか三十代とか。年代の違いになるとかなりそのコンディションに差が出てくるので、初読の時と全く違う印象を抱くことも少なくない。でも、Paradise Kissを読む時、わたしはきっといつも衝撃を受けたあの日の自分に帰っている。表紙を開けて、ジョージの作った不可能を可能にする青い魔法のドレスが、トルソーにかかっている中表紙に見惚れ、台詞や独白の文字を指でなぞり、心に飾っておきたい珠玉の言葉の数々を口ずさんでみる。

青い髪の型破りヒーローの名前はジョージ。譲ニじゃなくて、ジョージだ。

おやすみなさい、どうかよい夢を

久しぶりに外に出た。わたしの知らない間に、すっかり外が春になっていた。一週間前までは寒かったのに、もうそろそろ冬コートとはお別れする時期みたいだ。近くの公園を通り過ぎると、ブルーシートが一面に敷かれていて、仕事終わりのお花見が始まるところだった。シートの上に窮屈そうに座って、お寿司やお弁当、たくさんのアルコールを広げている人たちを横目に歩いていく。わたしには幸いなことに、あまり疎外感は感じなかった。大人になると、子供の頃より、ずっと一人でいることが許されているように感じる。

中学校時代が一番息苦しかった。いじめられていた訳ではないけれど、わたしの通っていた中学は、とても鋭くて痛々しい世界だった。今考えても十代の思春期の子が通うべきところじゃなかった。わたしは子供を産む気はないけれど、もし自分の子供があの中学に三年間通うのかと思ったら、ずっと家にいていいよと言うとそう思う。先生たちが悪かった訳でもない。悪かったのは一部の不良と呼ばれるような生徒たちだろうか。不良と呼ばれる人たち全員が悪い訳ではなくて、目についた人を簡単に貶めて辱められるような人間が許せなかった。正義感からじゃなくて、どちらかと言うと恨みに近い。あの子たちにも何か悩みがあったのかもしれないけれど、わたしは彼や彼女らのような人間を一生軽蔑し続けると思う。だから、いじめられていた人間が、一生それを忘れないというのはよくわかる。例えば、精神科での心理テストに木を描くというものがある。木はその人の人生を表している。思春期に傷つけられた人たちは、幹に大きなウロを描く。

もちろん、中学時代に悪いことばかりがあった訳じゃない。友人だってたくさんいたし、放課後に廊下で座り込んで、先生に怒られるまで話して、自転車で話しながら並んで帰ったりした。わたしの人生で唯一無二の存在である『テニスの王子様』の跡部景吾に出会うことができたのも、中学校時代の友人のおかげだ。あんなに人を好きになったことは、きっと今までもこれからもないと思う。わたしの恋人にも、跡部様がわたしにとって特別な存在であることは伝えてある。多くの人から見たら、くだらないことなのかもしれない。存在しないのにって笑われてしまうようなことなのかも。でも、存在って何を持って存在って言うんだろう? 傍で息をしていて肌に触れられて話ができること? でも眠っている間、夢を見るでしょう。夢の中で、わたしたちは実際には存在しないものに触れて音を聞いて、驚いたり笑ったり泣いたりしている。普段生きている世界だって、脳が肉体が拾った信号を元に作り出している仮想現実なのに、夢だけが現実じゃないなんておかしな話だ。

近頃は目を覚まして、現実に戻ってきて残念だと思うことがよくある。CLAMPの漫画に、現実のトラウマから逃れたくて夢を見続ける少女の話があって、わたしはずっとそれが羨ましい。どうか、今夜も素晴らしい夢がみれますように。わたしもあなたも。おやすみなさい、どうかよい夢を。わたしの大好きな言葉のひとつだ。

 

世界で一番ロマンチック

 

ドンファン [DVD]

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一番好きな映画は?と真摯に聞かれたら本当は内緒にしたい気持ちを抑えながら「ドンファン」と答える。間違いなく、世界で一番ロマンチックで幸せな映画だと思う。わたしの大好きなジョニー・デップマーロン・ブランドが出ているだけでも嬉しいのに、おかしくて切なくて愛しいロマンスのストーリーでじわじわと心が温まっていって、エンドロールでブライアン・アダムスのうっとりする歌声を聞くと、いつも泣きたいくらいの温かな気持ちでいっぱいになる。余韻に浸る映画と言えばいいのか、もうとにかく観終わったあとが幸せなのだ。ジョニー・デップの美しさにドキリとすることはあれど、映画自体は激しい映像があったりすることなく、夢と現の境目が曖昧な物語がゆっくりと続いてく。果たして青年は正気なのか?という疑問をマーロン・ブランドと一緒に抱きながら、精神病だと疑われる彼の紡ぐ不思議な愛の物語に耳を傾け、途中からそれがどうか本当であってほしいと祈りだす。

わたしはあまり映画を観ない(最近は特に減ってしまった)けれど、おそらく人生で一番観返している映画だと思う。でも「エクスペンダブルズ」を観返したばかりなので、それかこれかのどっちかかなあ…。タイトルだけで言うと振れ幅がすごいと思うけれど、でも彼らのかっこよさにはもうヒーヒー言ってしまう。でも、描かれ方は違っても彼らもとってもとってもロマンチストな軍団だと、これは間違いなくそう思う。

悪夢とホラーと柳の木

眠るのが大好きだ。昔から好きだったと思うけれど、最近は特に好きだ。気持ちよくシーツの上で微睡む瞬間と、それが許される時間があるという贅沢。夢を見るのが嫌いな人っているだろうか。悪夢ばっかりなら辛いかもしれないけれど、不思議な世界に連れて行ってくれる夢を見るのがわたしは好き。

忘れられない夢っていうのがいくつかあると思う。幼い頃何度も見た悪夢とか。幼稚園から小学校の低学年くらいにかけて見た何度も何度も見た悪夢のことを、今でもきちんと思い出せる。

ある日、わたしは母と近くの銭湯を訪れる。家のお風呂が壊れたとかなんとかで、家族で女性はわたしの母だけだから二人きり。その銭湯というのは、普通の銭湯を思わせる建物でなく、ボロい二階建てのアパート。夜なので、怪しい緑のライトの中にあって、わたしは母と手を繋ぎながらそのアパートに入ることに既に怯えている。各部屋ごとに趣向が違うお風呂があるということで、わたしは緑の湯に母はオレンジの湯に行くと言って、分かれる。緑の湯といっても、風呂場は普通の家庭にあるタイル張りのお風呂だ。というか、そこはわたしの実家のお風呂そのものだった。夢の中でその矛盾はちっとも不思議なことでないのがまた面白い。緑のお湯はその名の通り緑色、バスクリンの緑。ライトも緑でひどくおどろおどろしい雰囲気だ。何よりもおそろしいのは、床一面にいる蛇。タイル張りの床の上をうじゃうじゃと何匹もの蛇が動いていて、足の踏み場はなく、とても入れる雰囲気ではない。無論、幼いわたしは扉を開けた瞬間に固まって震えている。そして更に怖いのが、バスタブの蓋の上に乗って動いている乳幼児サイズのキューピー人形である。これは実際にわたしの実家にあったもので、わたしは確かに昔からそれが怖かった。おそらく潜在的に怖いと思っていたのが夢に具現化して、何度も同じ悪夢を繰り返すせいで、悪循環してしまったのだと思う。夢の中でそのお風呂に入れるわけもないわたしは、泣きながら必死で母のもとへ走る。怖い助けてという思いと、あとここはとても危ないから母を連れて逃げなくてはならないと子供ながらに強く思っていた。オレンジの湯はさっきの家のお風呂とは違って、石造りの大きなお風呂だったと思う。引き戸を開けた瞬間、驚くべきことにその湯に浸かりながら、母は石になって固まっているのだ。

夢はここでぷつんと終わる。もしかしたら続きがあったのかもしれないけれど、覚えているのはここまでだ。

蛇が出てきたり、人が石になるというのは、おそらくわたしがどこかでメデューサの話を読んだからだと思う。きっと、図書室によく置いてある子供が読む怖い話シリーズの本のせいだ。怖がりのくせにそういうシリーズはよく読んだ。ただ、大人になってからはホラーを読んだり観たりすることはなくなった。ある時、何かのエッセイで『心霊現象の話が苦手な友人がいるが、普段はちっとも暗闇や物音なんかに怯えることはないらしい。なぜならホラー映画やテレビ番組など、そういう要素を生活から一切断っているから、そういう想像がしにくいらしい』というのを読んで、なるほどと思ったからだ。そういう意味では子供の頃より、ずっと臆病になったのかもしれない。今でもお化け屋敷に入ることはないし、ホラー映画やテレビ番組も観ない。お化けが怖いことはもちろんだが、とにかく驚くことが嫌なのだ。お化け屋敷も、人が影から突然出てきて驚かない人がいる? と不思議に思う。

でも同じ人間なのか疑わしくなるくらい、肝っ玉の強い人というのはいて、五年ほど前に新入社員のグループで二人組になってお化け屋敷に入ることになった時に、わたしのパートナーになってくれた男の子がそうだった。当時、日本一怖いという形容のついていたお化け屋敷に入ることを、もちろんわたしは拒んだ。場の空気を崩してはいけないと思いつつも、許してくれという気持ちだった。一緒に行った子たちはみんな気持ちのいい子たちで、無理強いをするような子たちでもなく、だからこそわたしも本当に申し訳ないという気持ちになった。その時に、その男の子は「オレは絶対に最後まで驚かないし、ビクともしないから。倉乃ちゃんはオレと入るといい」と堂々と言ってのけたのだ。有無を言わさぬかっこよさと、「大丈夫、絶対に驚かないから」という彼の心強い後押しがあって、わたしは彼の腕を必死で掴みながら地面だけを見て歩いた。そして本当に彼は言葉通り、最後まで一度もビクリともせずにお化け屋敷を出たのだ。言葉通りを実行したその男の子はかっこよかったけれど、ここでは甘酸っぱい思い出を語りたいわけではなくて、わたしは心底彼に感動したということを伝えたい。人間ってここまで驚かないでいられるのだと、自分とは全く違う外界との関係性を持つ彼に憧れた。強いヒーローに憧憬を抱く子供の気持ちに近い。

それにしたって、他人って本当に羨ましい。普段の生活から、だいたいの人のことを、わたしはいいなあと思っている。羨ましいなあと。そして同時に彼らがそう幸せでもないということも知っている。みんな傷の程度はあれど、きっと嫌な思いもしてきている。だけれど、全然それをへいちゃらという顔をしてる人もいるし、ずーんと落ち込んだままの人もいるというだけだ。そこに良し悪しはなくて、ただ自分ではもう少しへいちゃらという風になりたいなと思う。強かであること。それがわたしの人生の理想だ。わたしの願う強かさは、柳の木のようなゆらゆらとしたものだ。風が吹いたら、風に合わせてゆらゆら動いて、でも足場は動かない。けれど、なかなかそううまくはいかない。毎日というほどわたしは泣いていて、周りはそれでもいいよと優しい声をかけてくれるけれど、わたしは人を信じられなくて、そんな自分のことを上手に許せない。

 

儚くて切なくて愛おしい隣人

語学というのは手段である、と思う。例えば、海外に留学して、一定のレベルで流暢な英語を身に付けても、それはただの手段だ。それを用いて、何をするかということが重要であるように思う。もちろん、英語や他言語を突き詰めて、通訳や翻訳というスキルを身につけることは別だ。通訳なら、相手のボディランゲージや、イントネーションを読み取るスキル、場の空気を読んで角のたたない表現にするなんてことも必要だろう。

ところで、わたしは翻訳者というのが、とても儚くて切ない職業だと思っている。読書の大好きなわたしの友人は、母国語以外の小説でも原著でしか読みたくないと言う。著者以外のひとりの読者である第三者を挟んで、再出力された翻訳書は確かに原著とは別物だ。だから、活字を愛するが所以の友人の気持ちもよくわかる(彼女は実際に、母国語の他に二つの言語を学んで、小説を読んでいるのだから本当に尊敬する)。特に活字は出力物が言語のみであるが故に、洋画や洋楽のそれに比べてより顕著だとそう思う。そして活字の中でも、小説や詩句はその最たる位置にいるとわたしは思っている。

ただ、翻訳者を必要としている人は大勢いるのも確かだ。小さい頃に、学校の図書館で読んだ椿姫や赤毛のアン若草物語に秘密の花園、小公女。エルマーのぼうけん、ダレン・シャンに、ハリー・ポッター。それらの全てが幼かったわたしにもするすると読めたのは、翻訳者の仕事のおかげだ。少し成長して、ドストエフスキーヘルマン・ヘッセカフカノヴァーリス(わたしはあまり外国の文学を読まないのですが、その理由はまた別途)。翻訳者である彼らの功績が一人の人間に対して与えている影響はあまりに大きい。

高校生の時、好きだった人文系の先生が「私は学生の頃、ボードレールの詩のよさがちっともわからなかった。ある日、友人が川辺でとても素晴らしい外国の詩を口にしているのを聞いて、それは誰だと尋ねたら『ボードレールだ』と言われた。私はその時、詩というのは音であって、元の言語で口ずさまれると、こんなにも美しいものかと大変驚いた」と仰られた。わたしはそれを聞いてたいそう感動したし、小学生の頃に国語の本で、松尾芭蕉の句を直訳すると、元の句の持つよさが失われてしまうというテキストを読んだことを思い出した。今思うとあれも、翻訳者のそこはかとない切なさを表したものだった。

翻訳とは、原作者の出力物を翻訳者のフィルタをかけて再出力する作業だ。どれだけ翻訳者が原作者に寄り添ったとしても、この事実は普遍だ。しかし、わたしも含め人々は自分の力だけでは読むことのできないテキストを求めている。その必要に応じて、翻訳者である彼らは原作者にできるだけ寄り添い、不可能であると知りながら自らというフィルタを薄め、原著を再出力する。完璧がないことをわかりながら、彼らは誤差を可能な限り減らしていく。こんなにも儚くて切なくて、愛おしい職業があるものか、と思う。彼らは言葉の繋がらない我らと、海の向こう側にいる一人の作家を繋いでくれる。海の向こう側で、彼が何を見て何を感じてそして何を書いたのかを、翻訳者はわたしたちの隣にきて、一生懸命日本語で伝えてくれる。「この食べ物はこんな色でこんな匂いがするんだよ、日本にあるもので言うと、こういうのに近くて、それで……」そして一生懸命話し終えたあとに、ほんの少し哀しげな顔で彼らはこう言うのだ。「そう、僕は思ったんだけれど」

 

パリ、ロンドン、ロマンとホームシック

9月末に、ヨーロッパへ行ってきた。ドイツに住んでいる日本人の友人に、今回はわたしが会いにいくよと言って、その約束をようやく叶えられた。

この旅行中、わたしは初めてホームシックというものにかかった。わたしは学生の頃、寮生活をしていたのだけれど、その時もそんなにひどいホームシックというものにはかからなかった。(休みに実家でダラダラの限りを尽くし、憂鬱な気分のまま学校に寮に帰りたくないと思ったことは数え切れないほどあったけど、それはおそらく別問題のはずだ)

だからホームシックにかかっている自分は不思議だった。二年前に体調を崩してから、わたしはわたしという自我の大きさに堪えきれなくなってきて、以前よりずっと世界が、生きることが苦手になっている。海外に行くのも久しぶりだった。10日間という短い滞在だったし、スリにあったりロストバゲッジしたりして、不幸な目にあった訳でもない。それなのに、その時は今すぐ日本へ、狭いワンルームの我が家へ帰りたくなったのだ。 

それが訪れたのは、パリからロンドンに移動してきて2日目のことだった。その日は、午前中に大英博物館へ行って、ロゼッタストーンを見た。そもそも、わたしは博物館というものにあまり興味がない。けれど、大英博物館を訪れるのは同意の上だったし、むしろ賛成だった。友人が好きだというのはもちろん、せっかくロンドンに来たのだから、一度は観ておかなければという思いがあった。ナショナル・ギャラリーもそうだったのだけれど、入館料が無料とはとても思えないほどの豪華な展示だ。別名盗品博物館と呼ばれるだけあって、一階の広々としたエリアには古代エジプト古代ギリシャの壁画や石像がずらずらと並んでいた。友人は興味深そうにひとつひとつの展示品を見て、時々説明の英語を翻訳もしてくれ、わたしはふんふんと辺りを適当に見回しつつ、面白そうな見た目のものを探して、写真を撮ったり撮らなかったりしていた。

正直に言うと、博物館は退屈だった。わたしは美術館は好きなのだけれど、博物館にロマンを感じられない。細工のすごい模造船や、装飾の美しい時計なんかは美しい!と思うのだけれど、壁画や石像の凄さは、この時代にこれだけ細かい絵をこの規模で描いてたなんてすごい、自分だったら絶対に嫌だみたいなことしかわからない。文明のロマンみたいなものを感じる感性が欠けている。エジプトに行った時も、砂っぽくて色のない跡地をたくさん回って、大きくてすごい、教科書で見たことがあるのを見れた、でもそろそろ色のついたものが見たいななんて残念なことを思っていた。もちろんエジプトに行くことなんてまずないことだし、今は治安の問題で渡航が難しくなっているから、行けてよかったなと感謝はしている。

でもせっかくロンドンにきて、大英博物館に来ているのだからとひとまず有名な展示品は見ようと回っていたら、自分でも知らないうちにひどく憂鬱な気分になっていた。旅の疲れが随分溜まってきていて、足が痛いなあと朝から思っていたのも大きい。わたしは運動も嫌いな上、体力がないので生きるのに不便だなと自覚があるほどに疲れやすい。まだ二十代なのにこの体力のなさは自分でも問題があると思っているのだけれど、生きていく情熱みたいなものがささやかなので、結局このままになっている。その時は既に無口になっていたので、友人に気を遣わせつつ、大英博物館をようやく出て、ご飯を食べようとして近くにあるデリを売るお店に入った。四角くて白い箱のサイズを選ぶと、その中にお兄さんが並んでいるおかずのうち、選んだ3種類を入れてくれる。店の奥にひとつだけ小さなテーブルがあって、食べる場所もないのでそこで友人と二人でデリを食べた。疲れていて足が休まった安堵もあったせいか、わたしの日本に帰りたい欲はそこでピークに達した。帰りたい。日本の、わたしの家に、今すぐ。

ホームシックというのは、結局わがままを言ってもすぐには帰れないという事実がひどいと思う。もし、全ての予定をキャンセルして帰るとしても、チケットを取って、空港へ行って、出国審査をパスして、それから飛行機の小さな座席で揺られて、また空港に降りて、荷物が出て来るのを待って、重たい荷物とともに電車に乗って、タクシーに乗って、ようやく家だ。どこでもドアみたいに、目を開けたら家のベッドにダイブできる訳じゃない。ロンドンの大英博物館の傍のデリのお店の小さなテーブルで、ごちゃ混ぜに3種のおかずの入ったご飯をスプーンで救いながら、わたしは日本にある自分の家のことを本当に愛しく思った。あそこに帰りたい、今すぐ帰ってほっとしたいと心から思った。そしてそう思った自分を情けなく思った。せっかく遊びにきてるのになあと。

わたしは昔から死にたいとか消えたいとか思うのが癖になっていて、周りの人間がそう強く思わないことが不思議で、大人になってからはより一層そういう欲望に惑わされないことが羨ましい。学生の時に付き合った男の子は「死にたいなんて一度も思ったことがない」と言った。嘘だ、信じられないと思ったけれど、そういう人は本当にいて、わたしと同じ世界に生きているけれど、随分生きやすそうに見える。一緒に旅行に行った友人も普通に生きている中で出会う不平や不満を漏らしたりはするけど、死にたいと思ったことはないと言う。こういう話題になると、またそういうことを言って周囲をネガティブにさせようとしている、とか、自分だけが辛いと思っている、と言われがちで、まあ実際こういう話題をすると触れた人は暗くなるので、仕方ないことではあるんだけれど少し悲しくもある。大人になったら勝手に治るかしらと思っていたけれど、結局治らなかった。この論争の結論としては、「わたしはすぐに死にたかったり消えたくなったりして、それを治すのはどうにも難しいみたいなんだけれど、心身ともに痛いことが世界で一番厭だから命を脅かされるのは本当に厭だし、そうすると慣性の法則みたいに生きていかなければならないので、頑張って生きていたいと思えるようにしなくちゃいけないけどやっぱり面倒だなあ」くらい。

まとまりがないけれど日記だからいいか。こういうことを書きたい、話したいと思うんだけれど、周囲の人が暗くなりがちなのでどうしても言いにくい。

 

SFとメルヘン

近頃、あまりにも物忘れがひどいような気がするのと、文章の練習と、燃えたぎったおたくの熱を発散するために日記を書いてみることにしました!周りのみんなはFacebookやLINEのタイムラインやtwitterなんかで、自分をデータ化して、それを外部記憶装置というかゴーストみたいなものにしているなあと思ったので、わたしもそれを作りたい!自分で過去の自分が書き起こした自分を振り返って、フムフムとなりたいです。SFみある!

普段から気分にムラがありすぎて、もしかしたら躁鬱のケがあるのでは?と真剣に悩むくらい、物事があんまり続かないタイプなので、この日記ではあんまり縛らないようにいろんなことを好きに書きたいです。多分書く記事にすごい差が出る。

さて、わたしは夢みるおたくなので、眠れない夜にはムクムクと妄想を膨らましているとにまにましながら幸せに浸れるのですが、「結局、大人になった今、歴代好きキャラでリアルにお付き合いするなら誰よ?」という話題がもっぱらのブームです!(リアルじゃないという批判は受け入れる余裕がない)中学生という輝かしい青春を、インターネットに溢れかえる夢小説を毎日朝の4時まで読み漁るというメルヘンさで、紫色に染め上げたくらいにどっぷり夢女子の自信はある!個人サイトのいい時代だった…。

このリアルにお付き合いするなら誰よ問題は、度々わたしの中だけで盛り上がっているのですが、リアルなお付き合いという時点で浮かび上がる悲しい現実は、プロテニスプレーヤーとして活躍中の彼に栄養満点の料理も作れなけりゃ、武将として武功をあげてきた彼の活躍を祝う宴席で皆が溜息をつくような舞も踊れない自分です。まず部屋が汚い時点で辛い。。。

そうなるとやっぱり救いようがないほど駄目な自分を何もかもを包み込んでくれる包容力溢れんばかりのメンズがランクに食い込んでくる!イエーイ!もともとユニバースのような包容力を求めている節ありけりなので、歴代好きキャラの中でそこに長けた彼らをピックアップすればよいこと!!で結局誰なの!ってなるんですけど、これはもうね!!ヘタリアのフランスお兄ちゃんですね!!!ワーイワーイ!!!!フランスお兄ちゃんの何が素晴らしいって、なんなんだろ……無理…全部が全部魅力的すぎるんですけど……髭がいいとかあのふっくらしたマッチョ感がたまらないとか変態だとか切ない笑顔がたまらないセクシーさとかいろいろあるんですけど、リアルにってところを足りない頭で考えました。

 

①料理ができる 

まず絶対これ。美食の国という名の通り、彼は料理がうまい…。ミシュラン☆☆☆のフレンチから田舎の素朴な家庭料理まで何でもござれ。いつも喧嘩ばっかりしている英国紳士もこの時ばかりは舌を巻く。金曜日の夜、仕事から疲れて帰ってきて、もう何もしたくない…口を開けたら焼肉を運んでもらえる高貴な身分に生まれ直したい…と玄関で倒れ込んだら、キッチンでいい匂いがしていて、「え?何?」と顔をあげると、そこにはル・クルーゼの鍋が…。目の眩むチカチカオレンジの蓋の傍には『お疲れ様。お兄さんの愛情たっぷりだから、あっためて食べてね。ボナペティ!』とメモが置いてあって、蓋を開ければ、小さな玉ねぎやホロホロのじゃがいも、ウインナーが美味しそうに湯気をたてている…。ウウウ…最高…。考えただけで尊すぎて涙出る…。(鍵を預けていて半同棲状態という設定になんなく気付けた人はすごい!)

②オタクに理解がある

これな~!!これ!これな~!!!これ!(しつこいけど大事)テレビの前にフィギュアを並べすぎてリモコンがうまく使えなかろうが、推しキャラのお誕生日に祭壇を作って祀ろうが、ブルーレイを大画面で再生してキンブレを振っていようが、おたくに理解がある!!!!!お盆や年末にTOKYOへ旅立っても大丈夫!なんなら一緒についてきて彼は彼で楽しんでくれるし、修羅場中のお夜食だって作ってくれるし、きっと嫌な顔ひとつしないはず…えっ無理…。えっフランスお兄ちゃんすごくない???完璧すぎない????わたしは彼に何をあげられるの?????この逞しい妄想力????

③女たらしである

最の高。女たらしというか人たらしというのか、フランスお兄ちゃんはとにもかくにも男女問わず数々の恋愛を経験しています。プロもプロなので、恋愛初心者でも全然大丈夫!!ダイジョブ!ダイノジョブ!!そろそろ元々ないIQが更に下がってきて語彙も落ちるね!!ちょっと論点がズレる上、純愛好きな方には大変恐縮ですが、わたしの萌えシチュの筆頭は「好きな人が他の女性とイチャイチャしているところを見て落ち込む」なので、この辺も充たしてくれそうな辺り本当に最高です。地面にめりこむくらい落ち込みたい。やっぱりフランスお兄ちゃんみたいな素敵な人がわたしだけを見てくれるはずないじゃん…わかってたのになんで落ち込むわけ…信じられない…ばかたれ…(翌日)でも好き!!!!!ってなりたい~!顔面をアイスノンで冷やし、なんでもないような顔でデートに行って、様子と顔面がちょっと変なのに気付きそうで気付かないお兄ちゃんとの間にフラストレーションためたい~。それがとにかく積もり積もって、こっちからやっぱり無理だ…もう別れなきゃ…って、別れを告げてからの向こうからのものすごい引力欲しい!!!!!ウワー!!!最高!!このシナリオで!!乙女ゲーム誰か作って!!!!

 

は~あ、楽しかった~はちゃめちゃ楽しかった~。最終的にフランスお兄ちゃんはほんとにマーベラスな男性ってことが改めて認識できたいい夜であった…。最初からこんなはちゃめちゃな日記で大丈夫???まとめが全然ないんですけど、ヒートアップして疲れてきたので今日はココまでだ!!オーヴォワー!