読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ghost

ものわすれがひどいのと文章の練習とおたく

パリ、ロンドン、ロマンとホームシック

9月末に、ヨーロッパへ行ってきた。ドイツに住んでいる日本人の友人に、今回はわたしが会いにいくよと言って、その約束をようやく叶えられた。

この旅行中、わたしは初めてホームシックというものにかかった。わたしは学生の頃、寮生活をしていたのだけれど、その時もそんなにひどいホームシックというものにはかからなかった。(休みに実家でダラダラの限りを尽くし、憂鬱な気分のまま学校に寮に帰りたくないと思ったことは数え切れないほどあったけど、それはおそらく別問題のはずだ)

だからホームシックにかかっている自分は不思議だった。二年前に体調を崩してから、わたしはわたしという自我の大きさに堪えきれなくなってきて、以前よりずっと世界が、生きることが苦手になっている。海外に行くのも久しぶりだった。10日間という短い滞在だったし、スリにあったりロストバゲッジしたりして、不幸な目にあった訳でもない。それなのに、その時は今すぐ日本へ、狭いワンルームの我が家へ帰りたくなったのだ。 

それが訪れたのは、パリからロンドンに移動してきて2日目のことだった。その日は、午前中に大英博物館へ行って、ロゼッタストーンを見た。そもそも、わたしは博物館というものにあまり興味がない。けれど、大英博物館を訪れるのは同意の上だったし、むしろ賛成だった。友人が好きだというのはもちろん、せっかくロンドンに来たのだから、一度は観ておかなければという思いがあった。ナショナル・ギャラリーもそうだったのだけれど、入館料が無料とはとても思えないほどの豪華な展示だ。別名盗品博物館と呼ばれるだけあって、一階の広々としたエリアには古代エジプト古代ギリシャの壁画や石像がずらずらと並んでいた。友人は興味深そうにひとつひとつの展示品を見て、時々説明の英語を翻訳もしてくれ、わたしはふんふんと辺りを適当に見回しつつ、面白そうな見た目のものを探して、写真を撮ったり撮らなかったりしていた。

正直に言うと、博物館は退屈だった。わたしは美術館は好きなのだけれど、博物館にロマンを感じられない。細工のすごい模造船や、装飾の美しい時計なんかは美しい!と思うのだけれど、壁画や石像の凄さは、この時代にこれだけ細かい絵をこの規模で描いてたなんてすごい、自分だったら絶対に嫌だみたいなことしかわからない。文明のロマンみたいなものを感じる感性が欠けている。エジプトに行った時も、砂っぽくて色のない跡地をたくさん回って、大きくてすごい、教科書で見たことがあるのを見れた、でもそろそろ色のついたものが見たいななんて残念なことを思っていた。もちろんエジプトに行くことなんてまずないことだし、今は治安の問題で渡航が難しくなっているから、行けてよかったなと感謝はしている。

でもせっかくロンドンにきて、大英博物館に来ているのだからとひとまず有名な展示品は見ようと回っていたら、自分でも知らないうちにひどく憂鬱な気分になっていた。旅の疲れが随分溜まってきていて、足が痛いなあと朝から思っていたのも大きい。わたしは運動も嫌いな上、体力がないので生きるのに不便だなと自覚があるほどに疲れやすい。まだ二十代なのにこの体力のなさは自分でも問題があると思っているのだけれど、生きていく情熱みたいなものがささやかなので、結局このままになっている。その時は既に無口になっていたので、友人に気を遣わせつつ、大英博物館をようやく出て、ご飯を食べようとして近くにあるデリを売るお店に入った。四角くて白い箱のサイズを選ぶと、その中にお兄さんが並んでいるおかずのうち、選んだ3種類を入れてくれる。店の奥にひとつだけ小さなテーブルがあって、食べる場所もないのでそこで友人と二人でデリを食べた。疲れていて足が休まった安堵もあったせいか、わたしの日本に帰りたい欲はそこでピークに達した。帰りたい。日本の、わたしの家に、今すぐ。

ホームシックというのは、結局わがままを言ってもすぐには帰れないという事実がひどいと思う。もし、全ての予定をキャンセルして帰るとしても、チケットを取って、空港へ行って、出国審査をパスして、それから飛行機の小さな座席で揺られて、また空港に降りて、荷物が出て来るのを待って、重たい荷物とともに電車に乗って、タクシーに乗って、ようやく家だ。どこでもドアみたいに、目を開けたら家のベッドにダイブできる訳じゃない。ロンドンの大英博物館の傍のデリのお店の小さなテーブルで、ごちゃ混ぜに3種のおかずの入ったご飯をスプーンで救いながら、わたしは日本にある自分の家のことを本当に愛しく思った。あそこに帰りたい、今すぐ帰ってほっとしたいと心から思った。そしてそう思った自分を情けなく思った。せっかく遊びにきてるのになあと。

わたしは昔から死にたいとか消えたいとか思うのが癖になっていて、周りの人間がそう強く思わないことが不思議で、大人になってからはより一層そういう欲望に惑わされないことが羨ましい。学生の時に付き合った男の子は「死にたいなんて一度も思ったことがない」と言った。嘘だ、信じられないと思ったけれど、そういう人は本当にいて、わたしと同じ世界に生きているけれど、随分生きやすそうに見える。一緒に旅行に行った友人も普通に生きている中で出会う不平や不満を漏らしたりはするけど、死にたいと思ったことはないと言う。こういう話題になると、またそういうことを言って周囲をネガティブにさせようとしている、とか、自分だけが辛いと思っている、と言われがちで、まあ実際こういう話題をすると触れた人は暗くなるので、仕方ないことではあるんだけれど少し悲しくもある。大人になったら勝手に治るかしらと思っていたけれど、結局治らなかった。この論争の結論としては、「わたしはすぐに死にたかったり消えたくなったりして、それを治すのはどうにも難しいみたいなんだけれど、心身ともに痛いことが世界で一番厭だから命を脅かされるのは本当に厭だし、そうすると慣性の法則みたいに生きていかなければならないので、頑張って生きていたいと思えるようにしなくちゃいけないけどやっぱり面倒だなあ」くらい。

まとまりがないけれど日記だからいいか。こういうことを書きたい、話したいと思うんだけれど、周囲の人が暗くなりがちなのでどうしても言いにくい。