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ものわすれがひどいのと文章の練習とおたく

儚くて切なくて愛おしい隣人

語学というのは手段である、と思う。例えば、海外に留学して、一定のレベルで流暢な英語を身に付けても、それはただの手段だ。それを用いて、何をするかということが重要であるように思う。もちろん、英語や他言語を突き詰めて、通訳や翻訳というスキルを身につけることは別だ。通訳なら、相手のボディランゲージや、イントネーションを読み取るスキル、場の空気を読んで角のたたない表現にするなんてことも必要だろう。

ところで、わたしは翻訳者というのが、とても儚くて切ない職業だと思っている。読書の大好きなわたしの友人は、母国語以外の小説でも原著でしか読みたくないと言う。著者以外のひとりの読者である第三者を挟んで、再出力された翻訳書は確かに原著とは別物だ。だから、活字を愛するが所以の友人の気持ちもよくわかる(彼女は実際に、母国語の他に二つの言語を学んで、小説を読んでいるのだから本当に尊敬する)。特に活字は出力物が言語のみであるが故に、洋画や洋楽のそれに比べてより顕著だとそう思う。そして活字の中でも、小説や詩句はその最たる位置にいるとわたしは思っている。

ただ、翻訳者を必要としている人は大勢いるのも確かだ。小さい頃に、学校の図書館で読んだ椿姫や赤毛のアン若草物語に秘密の花園、小公女。エルマーのぼうけん、ダレン・シャンに、ハリー・ポッター。それらの全てが幼かったわたしにもするすると読めたのは、翻訳者の仕事のおかげだ。少し成長して、ドストエフスキーヘルマン・ヘッセカフカノヴァーリス(わたしはあまり外国の文学を読まないのですが、その理由はまた別途)。翻訳者である彼らの功績が一人の人間に対して与えている影響はあまりに大きい。

高校生の時、好きだった人文系の先生が「私は学生の頃、ボードレールの詩のよさがちっともわからなかった。ある日、友人が川辺でとても素晴らしい外国の詩を口にしているのを聞いて、それは誰だと尋ねたら『ボードレールだ』と言われた。私はその時、詩というのは音であって、元の言語で口ずさまれると、こんなにも美しいものかと大変驚いた」と仰られた。わたしはそれを聞いてたいそう感動したし、小学生の頃に国語の本で、松尾芭蕉の句を直訳すると、元の句の持つよさが失われてしまうというテキストを読んだことを思い出した。今思うとあれも、翻訳者のそこはかとない切なさを表したものだった。

翻訳とは、原作者の出力物を翻訳者のフィルタをかけて再出力する作業だ。どれだけ翻訳者が原作者に寄り添ったとしても、この事実は普遍だ。しかし、わたしも含め人々は自分の力だけでは読むことのできないテキストを求めている。その必要に応じて、翻訳者である彼らは原作者にできるだけ寄り添い、不可能であると知りながら自らというフィルタを薄め、原著を再出力する。完璧がないことをわかりながら、彼らは誤差を可能な限り減らしていく。こんなにも儚くて切なくて、愛おしい職業があるものか、と思う。彼らは言葉の繋がらない我らと、海の向こう側にいる一人の作家を繋いでくれる。海の向こう側で、彼が何を見て何を感じてそして何を書いたのかを、翻訳者はわたしたちの隣にきて、一生懸命日本語で伝えてくれる。「この食べ物はこんな色でこんな匂いがするんだよ、日本にあるもので言うと、こういうのに近くて、それで……」そして一生懸命話し終えたあとに、ほんの少し哀しげな顔で彼らはこう言うのだ。「そう、僕は思ったんだけれど」