ghost

ものわすれがひどいのと文章の練習とおたく

おやすみなさい、どうかよい夢を

久しぶりに外に出た。わたしの知らない間に、すっかり外が春になっていた。一週間前までは寒かったのに、もうそろそろ冬コートとはお別れする時期みたいだ。近くの公園を通り過ぎると、ブルーシートが一面に敷かれていて、仕事終わりのお花見が始まるところだった。シートの上に窮屈そうに座って、お寿司やお弁当、たくさんのアルコールを広げている人たちを横目に歩いていく。わたしには幸いなことに、あまり疎外感は感じなかった。大人になると、子供の頃より、ずっと一人でいることが許されているように感じる。

中学校時代が一番息苦しかった。いじめられていた訳ではないけれど、わたしの通っていた中学は、とても鋭くて痛々しい世界だった。今考えても十代の思春期の子が通うべきところじゃなかった。わたしは子供を産む気はないけれど、もし自分の子供があの中学に三年間通うのかと思ったら、ずっと家にいていいよと言うとそう思う。先生たちが悪かった訳でもない。悪かったのは一部の不良と呼ばれるような生徒たちだろうか。不良と呼ばれる人たち全員が悪い訳ではなくて、目についた人を簡単に貶めて辱められるような人間が許せなかった。正義感からじゃなくて、どちらかと言うと恨みに近い。あの子たちにも何か悩みがあったのかもしれないけれど、わたしは彼や彼女らのような人間を一生軽蔑し続けると思う。だから、いじめられていた人間が、一生それを忘れないというのはよくわかる。例えば、精神科での心理テストに木を描くというものがある。木はその人の人生を表している。思春期に傷つけられた人たちは、幹に大きなウロを描く。

もちろん、中学時代に悪いことばかりがあった訳じゃない。友人だってたくさんいたし、放課後に廊下で座り込んで、先生に怒られるまで話して、自転車で話しながら並んで帰ったりした。わたしの人生で唯一無二の存在である『テニスの王子様』の跡部景吾に出会うことができたのも、中学校時代の友人のおかげだ。あんなに人を好きになったことは、きっと今までもこれからもないと思う。わたしの恋人にも、跡部様がわたしにとって特別な存在であることは伝えてある。多くの人から見たら、くだらないことなのかもしれない。存在しないのにって笑われてしまうようなことなのかも。でも、存在って何を持って存在って言うんだろう? 傍で息をしていて肌に触れられて話ができること? でも眠っている間、夢を見るでしょう。夢の中で、わたしたちは実際には存在しないものに触れて音を聞いて、驚いたり笑ったり泣いたりしている。普段生きている世界だって、脳が肉体が拾った信号を元に作り出している仮想現実なのに、夢だけが現実じゃないなんておかしな話だ。

近頃は目を覚まして、現実に戻ってきて残念だと思うことがよくある。CLAMPの漫画に、現実のトラウマから逃れたくて夢を見続ける少女の話があって、わたしはずっとそれが羨ましい。どうか、今夜も素晴らしい夢がみれますように。わたしもあなたも。おやすみなさい、どうかよい夢を。わたしの大好きな言葉のひとつだ。